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大学とかについて考えたこと。

立派なタイトルが独り歩き。

自分が受けている教育は不思議な構造をしている、と感じた学生が書いたメモ。
別に誰かを批判しようという意図はなくて、ただ、不思議だなあと思っただけ。

入試制度と、理系/文系の区分。

多くの大学では、希望する学部と学科を決めて、入学試験を受ける。場所によっては入学後(2年次とか)にコース選択がある一方で、入学時点で完全に学ぶ内容を決めてしまうところもある。基本的には、後から専門分野を変更することは難しい。できないことはないけど、少数派になるのは間違いないし、余計な苦労を強いられる。たとえば、進級時に学科変更した学生はこの必修科目が履修できてないから追加で受けてね、とか。そんなことを言われる。入学後に違和感を感じても、取り返しをつけにくいことが多い。

で、学部や学科よりも深い溝(だと僕が思っているの)が、文系と理系の区分。これらは、大学どころか高校生のうちに決まる。高校の途中で文理選択なるものがあって、クラスも分断される。何組から何組は文系、残りは文系、とか。少なくとも自分のところではそうだった。それぞれのクラスではカリキュラムが異なり、文系クラスでは物理を一切学ばなかったり、理系クラスでは日本史の授業が一回もなかったりする。

人間を文系と理系に分けられなければならないのが、よくわからない。
自分の感覚では、何も知らない状態で大きな選択を強いられたように感じた。


教養教育について。

大学には、教養教育科目というものがある。
主に大学に入学した初年度に、自分の専門にとらわれずに幅広い分野の講義を選んで履修できる。例えば、文学部の学生がプログラミングの授業を受けられたり、工学部の学生が気象学の話を聞けたりする。
で、実際のところ。教養科目は多くの学生にとって消化試合になっている。最低限取得しなければならない単位数が設定されているので、それを満たすように、テキトーに科目を選択する。

ここで人気になるのは、いわゆる”楽単”というやつ。レポートが課せられる代わりに試験がないものとか、評価に対する出席点の割合が大きいものとか。
楽単を選ぶ人は、どうせ教養科目で何を選んでも自分が今後学ぶことは変わらない、と感じていると思う。ある面ではその通りだと思う。転学科などの勇敢な選択をしない限り、教養科目に影響されて今後の専門分野が変わることはない。

ただ、自分の専門以外にもこういう世界があるのか、と知るのは、自分にとっては新鮮でおもしろかったし、きっと自分以外にも多少はそう感じる人がいると思う。せっかくいろんなジャンルに精通した人の話を聞けるのに、そっちに興味を持ったとしてもそれを深く学ぶためのハードルが高すぎるのは、もったいないような気がする。

もし、学部や学科の選択が大学入学後にあったら、教養科目がもうちょっと有意義なものになるんじゃないかな、と思った。他の国の学生はどんな学び方をするのか知らないけど、日本では自分の専門分野を急いで決めすぎなのでは、と思う。全員が後から専門を決めるようにしろ、と言いたいわけじゃなくて、自分のやりたいことをじっくり探していく、そういう選択肢も残しておいてほしい、ということ。そうすれば、狭い専門分野に潜り込む前に、もっといろんな世界に関心が持てると思う。教える側の負担も大きいとは思うのだけれど。

こういう分野もある、と幅広く知った上で、選択をする機会がほしい。
早い時期からやりたいことが決まってる人は、それはそれでいいと思うんですが。


最後に、大学と就職について。

大学でやることは役に立たない、と言われることがある。
就職の面接で、学生時代に頑張ったことはなにかと問われてバイトやサークルを挙げる、みたいな話をよく耳にする。一方で、勉学に励んだという話をした、とは聞かない。逆に、"勉学以外で努力したことを挙げよ"と言われた、という人の話は聞いたことがある。
課外活動に打ち込むことは素晴らしいことであって、それが評価されるのはいいと思う。ただ、大学は教育機関なんだから、そこで勉学(だけ)に励みましたよ、という人も同様に評価されていいと思う。


お金さえ工面できれば、誰でも大学に行くことができる。
お金が用意できなくても、奨学金がもらえればなんとかなる。
で、入学したら遊び呆ける。自分がしたい勉強をしたら、そんなことは役に立たないと言われる。
じゃあ、大学って何のために行くんだろう、と思う。

どんな選択をするのも人の勝手だと言われたら、そりゃそうだけど。
なんとなく、不思議だなあと思った。

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